都市化と疑似大衆社会的状況
『韓国社会の転換・変革期の民衆世界』二十数年に及ぶ韓国の経済成長実績が比類のないものであったこと、この事実は今日ではもはや常識に属する。しかし顧みれば一九六〇年代の初期、その後の高成長を予想させるような条件はこの国には何ひとつ用意されていなかった。植民地支配と朝鮮戦争を通じて、成長のための物的・人的資源を蓄積することが許されなかったのである。
韓国の高成長が私を惹きつけるのは、無一物の状態から出発した一国が一体いかなる経緯で高成長を達成し得るかという、経済発展論のいわば「原型」がここにあると考えるからである。とはいえ、ゼロから出発してなおこれだけの高成長を実現したのであるから、その分だけ鋭い社会的相克を抱え込まざるを得なかったというのも、他面の真実である。「開発独裁」「財閥支配」「対外従属」などが韓国経済を語る場合のしばしば常套句であったのはそのためである。
私が本書に強い共感を覚えるのは、著者がそうした相対立する評価のいずれにも与せず、むしろ厳しく対立する評価を生まざるを得ない矛盾に満ちた韓国社会の現実を虚心に眺めようとする、そのまっとうな姿勢のゆえである。かかる姿勢を貫くことによって、「韓国における歴史形成の主体でない日本人の我々としては、従来ややもすれば陥りがちであった、韓国の現実に主観的な。期待や失望を繰り返すというレベルを超えなければならない」というのである。
ソウルを中心に展開する巨大都市化現象は、一面では工業化による人口の「プル要因」のゆえであるが、他面では農民層分解を通じて離農を余儀なくされた人口が都市に流入する「プッシュ要因」の結果でもある、と著者は分析する。こうして韓国の都市化現象には、NIES的要因と第三世界的要因が混在するという。工業化にともなって新中間層が創出される一方で、大量の都市貧民が再生産される錯綜の都市化と、これに応じて生じたいささか奇妙なる疑似大衆社会的状況を描写する著者の筆力は確かである。
かかる都市化の中で生まれた「砂の大衆」が、現世利益的な韓国キリスト教の広範な普及を支えているとする見方は興味深い。それにしても、扱われる問題は大きなアジア的広がりをもつにもかかわらず、どうしてこう韓国ばかりを論じるのか。アジア諸国の同じ事実にも等しく目を配るならば、本書の示唆もよほど風合いの異なるものになったのではないかという思いを拭えないでいる。